私が特撮業界でお仕事をするようになったワケ【その3 開始編】

悩んだ日々

休職ののち会社も退職、私は大学も会社も続かなかったから
きっと体力的にお勤めは無理なんだなと思うようになりました。
確かにイラストのお仕事はいただいていましたが、ずっと実家にいて
月に1度のイラストの仕事を受けているだけです。

体調もずーっと悪いままで、一向によくなりません。

病院で調べても異常がなく、神経性だと言われましたが
毎日熱が下がらなくて吐き気があって、これで悪いところがないなんて信じられないと。

あるときどうしても神経性だということが信じられずに、
霊能力者の本を買ってみました。
ちょっと胡散臭い話になりますが、まぁ読んでください。

何人かの霊能力者が紹介されている本でした。
昔は個人情報保護法なんてなかったので、その霊能力者たちの住所や連絡先も書いてありました。
私は誰かのところに行ってみようと思い、ひとり選んで電話をしました。

…出ない。何度かかけても出ません。

うーん、電話番号でも変わったのかな?
じゃあダメならこの人…と2人目に電話。
すぐに出られました。

事情を話すと視てあげるから来なさいと。

行ってみました。
あれこれ言われたけど、言われた内容は身に覚えがなく…
でも治療ができる人だとのことでしたのでとりあえず定期的に治療してもらうことにしました。

で、何度目かに行ったとき。
まさかの事実を知ったのです。

そこ、JACのたまり場だった!!

えぇぇぇ〜!!
何も知らずに行ったのに!
こんな場所でもよもやの特撮つながり!!

私はどんだけ特撮の神様に導かれてるんだろう、と恐ろしいくらいでした。

先生が「あの〇〇ちゃんが出てた番組、なんていったっけ?」と聞かれても
それに答えられるのは私しかいません。

「『時空戦士スピルバン』ですね、先生」

ああ、そうだったわってそんな会話をこんなところで!
他の患者さんからは私がJACの女優だと間違えられたり…(笑)

すごいですね。世の中狭いですね。

ちなみに、本当に治療ができる人だったかと言うと
「人による」だと思います。

1度、治療をされたあとでひどい吐き気がして、駅までもたずに
途中の公衆トイレで戻してしまったことがありました。
これって、何の力もない人に頭や身体を触られただけではそんなこと起きませんよね。
手先から磁力か特殊な波長かなにかわかりませんが、
なんらかは出ているのでしょう。
それが人によって治療になる人もいれば、私のようにまったく効かない人もいる。

余談ですが、ビートたけしがいつの頃からか首を曲げるクセがなくなりましたよね。
それを直したのも多分その先生です。

たけし曰く
「この前〇〇(元JACの俳優さん)がおいらんとこきてよ、首を治してやるって言うんだよ」
「なんかわけわかんないおばちゃんのところに連れて行かれてさ、
おいら首に女物のスカーフ巻かれてなんだかんだされたんだけど、それで治ったんだよ」
そんな話をテレビでされていました。
うん、間違いない。その人が誘いに来たならあの先生のところでしょう。

私は何度か通いましたが治りそうにないので(結局神経性だったから?)通うのを辞めました。

その後、27歳で実家を出てひとり暮らしをするようになったら
自然と症状は治まっていきました。
まあ…原因はほぼ母親だったので、離れて暮らすようになったら回復したんですね。

きっかけは結婚パーティー

そんなこんなで20代をほぼ棒に振り、アラサーになった頃。
知人の結婚式の二次会に呼ばれました。

その知人というのは、『無責任艦長タイラー』『鉄甲巨兵 SOME-LINE』などでおなじみ、
小説家の吉岡平さんです。


こんなのあったからリンクしてみました。
登場人物はほぼ実在、エピソードはほぼリアルです(笑)

実は大学時代に東京六大学の漫研の人たちと横のつながりを持っていました。
その名も「うるとら漫」と言います。
東京六大学を中心に、関東15大学ほどが参加しており、
女子大で参加していたのはうちの実践女子大と東女だけでした。
「うるとら漫」として似顔絵イベント等を主催したこともありましたが、
数年で消滅しています。

吉岡さんとは彼がまだ小説家デビューする前の学生時代から交流がありました。
他にもその当時「うるとら漫」に出入りしていてのちに各業界で活躍されている方は何人もいます。

うちは女子大でしたから、正直言って漫研のむさくるしい男たちとの飲み会や
合同イベントには行きたがらない女子も多かったです。
私みたいに兄がいたりして抵抗がない人は参加してましたね。

が、そこで運命が分かれたわけです。

「うるとら漫」にあまり参加しなかった子は卒業後に
「漫画を描きたいんだけど、依頼してくれる出版社に知り合いがいない…」と
苦労する人もいました。

私の場合、特に自分で努力していないのに各業界へのつながりができてしまったのです。

話は元に戻りますが、吉岡さんの二次会、いや正確にはその後の三次会に行ったとき、
たまたま近い席に座って意気投合した人物がいました。
それはスタジオ・ハード(現・スタジオ・ハード・デラックス)社長の高橋信之氏でした。
同席していた私の先輩は「うるとら漫」で彼を学生時代から知っていて、
いつかは私に紹介しようと思っていたとのこと。

その場でスタジオ・ハードがどんなお仕事をされているのか聞き、非常に興味を持ちました。
私も特撮が好きですと話したら「いいねぇ」という反応。
ぜひ、お仕事をいただきたいと思いました。
ところが、私名刺を持ってなかったんですね。
それで手帳の端っこに連絡先を書いて、破いて高橋社長に手渡しました。
「できそうなお仕事がありましたらぜひよろしくお願いします」と念を押して。

押してみるまでもなく

それから1週間以上経ち、あちらからは何の連絡もない。
どうしよう。
親にも相談して、私から電話してみることにしました。

「ああ、聞いてますよ、なんか使えそうな人がいるって」
電話口の向こうからそんな言葉が返ってきました。
すぐに社長に取り次いでもらい、「1度遊びに来なよ」ということになりました。

吉岡さんの二次会が1月30日だったか。
私がハードに初めてお邪魔したのは2月14日。
バレンタインデーだけど初対面の人たちにいきなりチョコ配るのもどうか…と思って
特に何も持って行かなかったのを覚えています。
とりあえず私のイラストサンプルだけ持って行きました。

高橋社長は丁寧に各部署を紹介してくださいました。
“MX”という部署へ行ったとき、

「君はここがいいだろう」

と言われました。
MXはバンダイ刊の特撮・アニメ情報誌「月刊B-CLUB」の編集をしていた部署。

「文章も書けるよね? ここで連載して」

B-CLUB
連載を始めた83号

え? 私の文章読んでないのに大丈夫? と思いましたが、
まぁ普通に書けるだろうと踏まれたわけですね。
あまりにも簡単に連載が決まりました。

当時はまだ女性で特撮に関われる人材が少なかったため、珍しかったのもあるでしょう。
運がよかったとも言えます。

結局、

大学に入った時点ですでにつながりはできていた、ということ。

私にとって実践女子大は滑り止めでした。
でも他の大学が受からなかったので実践に入ることに。
ところが他の大学に受かっていたら「うるとら漫」には参加できなかったのです。
そして「うるとら漫」に参加できるチャンスを私は逃さなかった。
そのために各出版社や作家さんの知り合いが多くできたというわけです。

こうして何の苦労もせず連載をゲットした私。
この先どうなるのか?!(つづく)